厳しかった卒業式

今週のお題「卒業」

卒業の想い出と言えば、なんと言っても小学校です。
毎日毎日猛練習したシュプレヒコール
全員自分の単独のセリフがありましたが、セリフのタイミングがわからなくなってしまうと困るので、必死でぜんぶ頭に叩き込んだものでした。思えば九九だってあんなに一生懸命覚えなかったのに、覚えようと台本を何度も読み返したことを覚えています。
失敗したら、同級生のみならず、大勢の在校生とか保護者の前で叱られる。そういう恐怖感にかられていました。今思えば、実際本番で失敗したって先生は怒らなかっただろうと思いますが、子供だった当時は、きっと怒鳴られるんだと思い込んでいました。
卒業証書授与も一苦労。
ちょっとでも動作を間違えようものなら猛烈に怒鳴られて、何度もやり直しさせられて、やり直しをたくさんしたせいで、ますます正しくはどうだったのかわからなくなってしまったという、懐かしい想い出。

式の間中、ピクリとも動いてはならず、そんなときに限卒業の想い出と言えば、なんと言っても小学校です。
毎日毎日猛練習したシュプレヒコール
全員自分の単独のセリフがありますが、セリフのタイミングがわからなくなってしまうので、必死でぜんぶ頭に叩き込んだものでした。思えば九九だってあんなに一生懸命覚えませんでした。
失敗したら、同級生のみならず、大勢の在校生とか保護者の前で叱られる。そういう恐怖感で必死でした。
卒業証書授与も一苦労でした。
ちょっとでも順番を間違えようものなら猛烈に怒鳴られて、何度もやり直しさせられて、やり直しをたくさんしたせいで、ますます正しくはどうだったのかわからなくなってしまったという、懐かしい想い出。

式の間中、ピクリとも動いてはならず、そんなときに限ってむしょうに鼻がムズムズしだしたり、目が痒くなって、ずっとジリジリしていた想い出。



鼻がムズムズしだしたり、目が痒くなって、ジリジリしていた想い出。

余りいい思い出な感じじゃありませんが、厳しく長い訓練を続けたせいか、小学校の卒業式が一番厳かだったようにも思います。たぶん全員が真剣な気持ちで、緊張感をもって式に臨んでいたせいかも。

それがいい事なのか、悪い事なのか、そんなことは判りませんが、卒業式といえば、私にとっては何と言っても小学校なのです。

何かとこっぴどく叱られた時期でしたが、自分が一番自分らしくいられた楽しい時期でもありました。

卒業って言うと、そんな想い出が吹き出してきました。

じゃがいも人参玉ねぎのにんにく風味チーズ焼きと揚げ出し豆腐

じゃがいも、人参、玉ねぎを1。センチ弱くらいにスライスして、オリーブオイルとすったにんにく、塩コショウで和えたものを、チーズを載せてオーブンで焼きました。
不味くはないのですが、何というか、テーマがよくわからない料理になりました。
チーズを主張させたいのか、にんにくを主張させたいのか判断できない味。
チーズ無しのほうがうちの家族は好きだったかもしれません。
料理の道はまだまだ険しい。と思いました。


あと揚げ出し豆腐。
今日は油が特売だったのです。
揚出し豆腐は安いけど、喜ばれる料理ですね。

明日は何を作ろうか。
それは明日スーパーに行ってから考えます。

サバのカレー焼き キャベツのにんにくだれ

久しぶりに今夜の献立です。

 

塩サバのカレー風味焼き

キャベツのにんにく塩ダレかけ

ホウレンソウと豆腐の味噌汁

 

以上です。

 

塩サバは、小麦粉、カレー粉をまぶしてフライパンで揚げ焼きしました。

表面はパリッとカレーなんですが、食べたらやっぱり塩サバなのです。

あ?

というのが食べてみた感想です。

まずくはないんですが、洋風の料理かと思ってたら干物だなんてだまされた~

という気持ちになります。

 

今夜はそんな感じの晩御飯でした

 

未来予想

さて、少し先の未来を予想してみます。

○電車は窓を開けるようになると思います。換気して欲しいと乗客からの要望が出て、寒いけど窓を少しだけ開ける。

○バス、タクシーも窓開けすると思う。

○早朝、夕方に小学生が外遊びする。多分一人で出来るローラースケートが流行る。親が付き添って見守ってる。

○スイッチのリングのやつが売れる。

○通信教育を始めるうちが増える。

○子供ユーチューバーが増える。

○オリンピックが無観客開催。

○審判がウエアラブルカメラをつけて、映像がネットで放映される。ライブカメラが、競技場の地面などに入っていて、すごいアングルからの映像が見られる。

○選手がウエアラブルカメラを身に着けて競技する。

○競技会場観客席にてドローンが飛び交って映像を撮ってる。

○ネットを通して競技場に声援を送れる。競技場にはスピーカーがいっぱいおいてある。

○子供が日中外に出てると非難される。

猫のうらやましいところ

お題がいつのまにか、うるう年になってしまった。

猫について書きたかったから本当は書きたかった気持ちを、書きとめておきます。

 

猫。

それはやわらかい生き物。

猫。

それはふかふかの生き物。

私は猫に生まれなかったことを心から悲しんでいる。

猫をうらやんでいる。

母猫のむわっとしけったお腹の毛に顔をつっこんで、いくらでも曲がるようなやわらかい体を丸めて、みぃぃ、と鳴きたかった。

ひげを広げて、爪を広げて、ふぅっとうなりたかった。

何も見えそうにない宙をじっと見つめて、カッと瞳を開きたかった。

狭くて入れそうにない隙間に入り込んで、やっぱり入りきれず、後じさりしてもがきたかった。

自分の背の何倍も高い塀の上に、身軽に跳び上がりたかった。

すくみそうに高い屋根の上から、ひらりひらりと地上に降り立ちたかった。

敵が来たら慎重に跳び退って逃げ、美味しいものは、ばらばら散らかして食べ、

自分よりうんと大きな人間の膝に、我が物顔で乗り上がりたかった。

そしてごろごろと喉を鳴らして、気に入らないところを触られたら、シャッとひっかきたかった。

目が覚めると、とりあえず、うにゃ、にゃ、にゃと伸びをして、そして縮む。

なんでそういう、猫に生まれなかったのだろう。

 

いや、もしかして、こうしてこんなにうらやんでいるのだもの。

私は本当は猫かもしれない。

きっと、猫なんだ。

のびのび、猫らしく生きていてもかまわないんだ。

だって、猫なんだもの。

 

朝おきたら、うぉーっと伸びをして、

体は固いけれど、まあ年のせいだからしかたがない。できるだけ丸くなって縮んでもう一度布団にもぐりこみ、

気に入らない人には嫌みの一言くらい言い、

甘やかしてくれそうな人にはとことんわがままを言い、

敵がきたらさっと知らんぷりしてやりすごし、美味しいものはこっそり独り占めし、

高いところは怖いから避け、

体は重いから膝に負担がかからないようあまりはねたりとんだりはせず、

狭くて入れそうにない隙間をそうじしようと入り込んで、やっぱり入りきれず、これはヤバイと後じさりしてもがき、

何も見えそうにない宙をじっと見つめて、長い時間ぼやーっとし、

夫のひげをみつめては、ああ、女に生まれてよかった。ひげが生えてこないから。顔にこんなものが生えてきたら生きていけないワ。としみじみ幸福感を味わい、

大きくなってくそ重たくなったくせに、いつまでも「お母さん、お母さん」と甘えてのしかかってくる子供に押しつぶされて、「ぐぇぇ」とうめかされている。

 

そう。これは猫。もう猫。

私は猫なんだ。

 

そんな風に思って、生きていけばいいのである。

反抗期母 全世界の支配者から台所の支配者への地位の転落

うちの子供の反抗期は、じょじょに落ち着いてきました。

今でも、

ナニソレかんじわるーい

と思う態度をとってくることも多々ありますが、だいたいはおちついた気分で過ごしている様子です。

最近本当に楽になってきました。

 

反抗が激しかった頃のわが子を見ていたら、私に対して、「全世界の支配者」みたいなイメージがあったようでした。

ああ、おかーさんも全世界支配してみたいよ~

それはそれでめんどーくさそーだけど~

なんてと思ったものでした。

ここにいるあんたの本当のお母さんは、全世界を支配できるようなスゴイパワーは持ち合わせてないんだよ。そんな全力で正義の戦いを挑まれたって、しんどいよ。トホホ。

ということをそういえばよく感じてました。

この戦いは、付き合わなきゃダメなんだろーか。サボりたいんだけど。としばしば思ったものでした。

ところが!

そんなこんなで、勝手に押しつけられた「全世界の支配者」役だったのですが、そのイメージが近年はがれたもようです。

正義の味方である敵は、正義のための戦いを何度も何度も挑んでいるうちに、「全世界の支配者」だと思っていた「おかーさん」が、そんなボスキャラではないと気付いたようなのです。むしろ雑魚キャラっぽいぞ。と。

だから、最初っからそんなたいそうなもんじゃないって言ってるのに!

このわからんちんめ!

おかーさんは、せいぜい「台所の支配者」くらいな立場なんだよ。

 

こうして「全世界の支配者」という地位からは転落しましたが、相変わらず仮想敵ではあるようで、ツンツンはしてきます。でも楽になりました~

 

 

ウラジロチチコグサが立ち始める

こんばんは~

2月の終わりですが、そろそろ春の気配がしてきましたね。

足元を見たら、ウラジロチチコグサの葉っぱが少し立ち上がりはじめていました。

あんなにかたくなに、ペッタリ地べたに張り付いていた葉っぱが!地べたを離れて伸びあがろうとし始めている!

立った!ウラジロチチコグサが立った!

ウラジロチチコグサというのは、綺麗な花が咲くわけでもない、地味な草なんですが、緑の葉裏が「えっ!?」と思うくらい白いという、面白い草です。面白いといいつつ、表じゃなくて裏が白いんですけどね。

あいつらが群生しているさまは、もしかしたら気持ち悪く感じる人もいるかもしれません。私は苦手です。ゼニゴケ的な気持ち悪さがあります。あのペッタリ感が嫌。それに、あいつらには腹もたちます。綺麗さっぱりおさらばしようと思って、とても抜きにくいのです。

そんな憎いウラジロチチコグサですが、その姿に春めいてきたことを感じて、今日は嬉しかったです。

 

だいたい3月頃が、私が一年中で一番楽しみにしている季節なのです。

一年で一番、草花の日々の変化を大きく感じるからです。

雑草たちが、温かな春を目前にして、ぐいぐいと急激に伸びていく様子は見ごたえがあります。

いかにもやわらかそうな緑も、目に気持ちがいい。

ニワトリを放つと大喜びでつつきまわることでしょう。

いや、私こそがニワトリになって、新鮮なやわらかそうな葉っぱをついばみたい 。

そしたらどんなに素敵だろう・・・

春を目前にした草は、そんな風に人をうっとりさせてくれます。

やわらかい葉は、繊細で弱そうに見えるのですが、あれで意外と、雪に埋もれても枯れません。

丈夫な連中です。

さすが、雑草。

やっぱり除草剤を散布するのが一番てっとりばやいです。

 

毎日通う道のどこかしらに、雑草が生えている場所を見つけて、ぜひ、眺めてみてほしいです。

例えば駐車場の片隅だったり、例えば空家の庭だったり、例えば街路樹の足元だったり、例えば線路の脇だったり、例えば駅の看板の足元だったり、雑草スポットはどこかにあると思います。

コンクリート砂漠には、それさえなかなか見つからないのかなぁ。

そんな場合は、放置されてるプランターなどでも、雑草スポットにはなりえます。

探して、見つけて、眺める人が増えますように~

 

勉強する理由

それはいくつかあると思います。
純粋に、ただ知りたい、分かりたいと思う気持ちがまず一つ。
何かをするために必用な知識を身につけ、それを使うためというのが一つ。
それから、何かを知ることによって人格を改造して違う人間になるというのがもう一つ。これだと言い方が悪いですが、「一生懸命勉強して、立派な人になる」ということです。脳みそを隅々まで鍛えて、バランスのいい人間になるということ。

子どもたちはよく、こんなこと勉強しても将来役に立たないと言って、嫌いな勉強から逃げようとします。
実際勉強したことが直接生活で役立つことはないのかもしれませんが、学ぶことで確実に脳みそのどこかに新しい回路ができるのです。
つまり人格は確実に改造されてる。
ちょっぴり立派になっている。
得意でも苦手でも全員全教科を勉強することになってる理由はそういうことだと思います。


結論。
勉強はしないよりした方がいいと思います。
苦手なものほど意識して。

先輩について

人間は一番最初に肛門からできるらしい。
それから管が伸びて、口が出来る。
順番からすると、口は偉そうに御託を並べているけれど、肛門のほうが先輩なのである。

先輩はなんの文句も言わず、ただ自分の職務を果たしている。
でも時々、都合の悪いタイムングでぷうっと言うのは先輩のちょっとした反逆行為なのかもしれない。
そんなときの先輩は、止めようとしても止まらずに、連続で困った反逆を繰り返す。
もう縁を切りたいと切に願うも、先輩とは切っても切れない自分なのである。

先輩のいない生活を夢想する。

いや、それ、むっちゃ痛そうだし。

こうして、先輩との共同生活を続けるのである。

何故先輩が先輩で後輩では無いのか。なんてふと思いつく。
多分先輩が後輩だったら、体内に何か入ったら入りっぱなしでだんだん膨れて破裂しちゃうからである。
口はなにかともぐもぐしちゃうし、止めたって止まらないだろう。まだ完成していない胃袋に食べ物を送られたって困るからである。
と思うけど、本当のことは知らない。

先輩は自分じゃ姿を見ることができず、神秘のベールに包まれている。
きっと私の先輩は美しいのに違いない。
七色に光り輝いてるに決まってる。
絶対みんなのとは違うのだ。
大事にしよう。
そう思った。

何のために働くのか? まじめすぎてつまらない話

何のために働くのかといったら、

人のためではないのでしょうか。

誰か他の人のために、自分の時間と労力を使うことが、働くということなのだと思います。

自分が得意で適性があり、人様のお役に立てそうなことがらを自分の仕事にして、

逆に、自分が苦手で適性のないことは、他の人にやってもらって暮らしていきましょうというのが、働くということなのかと思います。

だから、働く目的と言えば、人様のお役に立つことしかないと思います。

 

みんな何かしら得意分野があって不得意分野もあって、

先だっても言った通りこの世は大変多様なので、

この世のどこかには自分がやれる仕事もあるはずです。

 

私は主婦です。主婦と言えば何の仕事もしてない役立たず的な言われようをされることもありますが、私自身はあまりそんな気持ちはありません。

自分は世の中の役にたってるという気がしてます。

収入といえば、税金を払う必要もないほどのごく少額なものしかありませんが、

夫は私のささえなしには、元気に働けないでしょうし、

子供は、きっといつか世の中の役に立つ人間になってくれるでしょう。

親も、私の世話を必要としています。

町内会でもPTAでも、いないとダメなほどの存在感はありませんが、いたら多少は役立っています。

自分もこの世の中の一翼を担っているという実感をもって、日々主婦業に務めています。

私のできる仕事の分野が、専業主婦だったということかと思います。

 

どうも、まじめすぎてつまんない話になりましたねー。

 

今日は調子がでないので、以上!

 

やる気スイッチの場所 ※個人の感想です

こんばんは~

今日はやる気スイッチの場所についてです。

そこを押せばたちどころになんでもやる気になるスイッチ。

そんな夢のようなものがあったらいいですよね~

汚れたお部屋も、たまった食器も、干しっぱなしの洗濯ものもたちどころに片付きます。

中途半端に読み散らかした本も、実は去年の10月以降ほったらかしてる家計簿も、あっという間に片付きます。

なんて素敵!

そういうスイッチがほしい。

でもそんなの無いよな。。。

と長年思い続けて生きてきました。

けれど最近、思ったのです。

そういうスイッチは存在するべきだ。

絶対存在するべきだ。

きっと存在するのだ。

それで探しました。

そして見つけました。

 

なんか~、

お尻っぺた同士をギュッとくっつけて、

太ももの内側同士もギュッとくっつけて、

腰骨をたてて、背中を伸ばし、

胸を開くとスイッチが入るっぽいのです。

 

私はそのように感じます。

やる気スイッチ、発見!

私の人生はこれで変わる!

 

と、思ったんですが、やる気スイッチを入れる気がなかなかおきないのです。

ああ、やる気スイッチを入れなければ。

そしてあの皿を洗わなければ。

洗濯ものの山も、みんな畳んでしまわなければ。

そう思いながら、夜は毎晩更けてゆくのでした。

 

残念~

 

やる気スイッチはみつけるだけじゃダメ。

押すにも気力が必要で、

そこで必要な気力は、じゃあ、どこからわかせたらよいのか?

 

問題はなかなか解決しない。性質を変えて続いていく。

そういうことが、よくわかりました。

 

いい加減皿を洗おうと思います。

まじめにやらないとだめですね~

 

間違い探し

 

近所のスーパーでまた、「間違い探し」が流れてました。
それでふとやりたくなって、間違い探しをやってみました。
デニーズの間違い探しは難しいですね。一見簡単そうに見えるのに、実際やると最後のひとつが見つからない。

 

そして思い立って、間違い探しの間違いの方と正解の方を図にしてみました。
手書きで正規分布の曲線が書けなかったので、エクセルで図を作りました。
とても時間がかかりました。
仕事でもないのに何をこんなに自分はがんばっているのでしょう。

いったんはじめてしまったので最後まで頑張るのだ。と言い聞かせ、何故だか作った図なので、よかったら見て行って下さい。


さて世の中、こんな感じでいろんな人たちが分布していると思います。

 

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で、間違い探しの間違いの方と、正解の方です。こんな感じかと思います。

 

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真ん中らへんに多数派勢力がいて、その人たちが正解の方。
そこからちょっとはずれてる少数派が、間違いの方。
全部足すと間違い勢力もなかなかの人数いそうですが、それぞれ派閥が別々で共闘することはないので、正解勢力には打ち勝つことができないのだと思います。
そもそも勝つ必要も特にないと思います。




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そんな私たち正解派と間違い派ですが、たいていは、間違いの方に生まれた人たちは、正解の方のふりをしながら生活していると思います。
その方が世の中うまくいくからです。
そして正解側の人たちも、なんとなく間違い側の人を仲間として受け入れている。
あ、こいつ間違い側の人だ!と気づいていても気づいていなくても、ピンクのライン内に入るようにふるまってさえいれば、特に問題はないのです。だからゆるーく受け入れてることが多いと思います。

たまに、どうしてだかやけに攻撃的な人もいます。おまえは不正解な奴だと責められて困ることもありますが、そんな攻撃的な人も実は少数派です。どこにいっても攻撃されるというほどのことはありません。
ふつうは、その人がどんな生まれかは問題とならず、振る舞いが常識の範囲に収まっているかどうかを気にされます。
振る舞いさえ範囲内におさまっていれば、「ふつうの人」としてやっていけます。
そんな世間は、一見、一切多様性がないかのように見えます。
でも実は多様な人が一様なふりをして生活しているだけで、実際のところは多様なので、多様性に関しては心配することは何もない気がします。
ピンクのラインがどの辺の位置にあるのかはわかりませんが、意外とたくさんの人が、実は間違い側に生まれているんじゃないかと私は思っています。
わざわざ「私間違いです」って宣言するものでもありませんから、見えないだけで、隠れ間違い派がたくさんいるのではないでしょうか。

だから、わざわざ多様性を認めるとか受け入れるとかしなくてもいいんじゃないのかなぁという気が私はするのです。
何か天変地異がおきても、実は多様ではあるので誰かしらは新しい環境に適合的な人がいて、きっと生き延びることでしょう。

 

間違い探しの歌は、ピンクのラインの外側に生まれて、正解のふりをしてたら苦しくなってたんだけど、
ちゃんと生まれたままの自分を認めてくれる人が現れて、ピンクのラインに拘ってた自分に気付いた。
苦しかったのは、そのラインの内側に生まれなきゃだめなんだ。内側に生まれなかった自分はだめな人間なんだ。というこだわりが自分の中にあったせいだった。君はちっともそんなこと気にしてない。拘っているのは自分だけだった。そうだ。よく考えてみるとそんな生まれへの拘りなんてものはどうでもよかったんだな。
っていう歌でした。

流行ったということは、そういう、ピンクラインへのこだわりの苦しさに共感する人が多いということでしょう。
ということは、結構ピンクライン範囲からはずれてる人が多いということだと思います。

なるほど、この世はちゃんと多様だし、みんなうまく立ち回ってる。
ときどき、ピンクのラインなんてどうでもいいんだって曲を聴いて気持ちを楽にしたりもしてる。

この曲を聴いて共感してる間違い側のみなさ~ん!私も間違い側ですよ~!言わないけど。

少しだけ人とずれてしまっているみんなは、人類の多様性に貢献してるのです。それは豊かで重要な任務です。役にたつかは不明ですが、人間の可能性を広げるという大切な役割があるのです。

正解側のふりをするのは疲れますが、気に病むようなことではなく、ひっそりと、でも誇り高く、自分でいればよいと思います。

脳みそは鍛えると育つので、時間はかかるし大変ですが、「ふつう」のふりもいつかは上手にこなせるようになるでしょう。

 

スーパーで「間違い探し」が流れていると、夕食の献立に悩む合間に、そんなようなことを思います。

「 心を操る寄生生物:感情から文化・社会まで」 キャスリン・マコーリフ

先日、

 Jewels in the night sea 神秘のプランクトン

という本の感想を書いていたときに、「のっとり」に対する恐怖感に興味がわいたのでちょっと寄生虫についての本を読んでみました。

 

↓こういうのです。

「 心を操る寄生生物:感情から文化・社会まで」

 

 

 内容は、寄生虫研究について、どんな人がどんな研究をしているのか紹介する読み物です。研究者の容貌、雰囲気からはじまって、研究経歴、その寄生虫研究をしようとした動機や研究中に苦労した点などについて語られます。そしてそんな研究者たちが明らかにした、奇妙かつ巧妙な寄生虫の生活が紹介されていきます。

 人間に住み着いている寄生生物の数と、人間の細胞の数では桁違いで寄生生物の方が多いという話では、何が自分で、何は自分ではないのか、いったい自分というのは何なのか、不安な気持ちになりました。

 ふと、好物でもない納豆が食べたくなるとき、たぶん腸内細菌が「○○を摂取しろ」と命令してきているのです。私の無意識がそれに合致する食品として納豆を選んで、意識に納豆を登らせて、それで無性に納豆が食べたくなるのでしょう。

 そのときその納豆を食べたい気持ちは、誰の気持ちなのでしょうか。私でしょうか。腸内細菌でしょうか。私が「私」と思う私には、すでに腸内細菌が深く入り込んでいて切り離せそうにありません。感情も行動も、細菌群とは切り離せない状態のようです。

 そうだとすると、実際私として生きている私が思う「私」は、ヒトの部分と住み着いている細菌群の合わさったものだと思います。

 ヒト部分だけが「私」で、細菌群部分は別物なのだとは言えない。

 実は、若いころ、体と心があって、心だけが自分で体は自分とは違うと感じていた時期がありました。そのうち、いや、体あっての心だ。まず体がなくては心も生まれない。と気付きました。当たり前のことなのですが、そのときは驚いたものでした。今、自分というものがヒト部分だけでできているわけではないと気付いて、またとても驚いています。

 

 寄生生物そのものも面白いのですが、自分という存在の足元も不確かになってきて、考えこんでしまう本でした。

 

 面白かったんですが、私はこの本の最後の方に出てきた寄生生物の人間社会の文化に及ぼす影響と、多様性を受け入れる話についてはイマイチ何言ってんだかよくわからなかったです。

 おおざっぱに言うとこんな感じ。

 人間は寄生生物から身を守る一つの方法として、「嫌悪感」を発達させてきたのだろう。寄生生物が多い地域では、内気で、見知らぬ人間とはあまり関わろうとしない傾向が強い。それは、寄生生物のストレスに対する防衛として強化された特質なのではないか。そのため、寄生生物の少ない地域よりも、なじみのない人間に対して嫌悪感を強く感じるのではないか。寄生生物が少なくなったこの現代、なじみのない人間に対する嫌悪感や拒絶は必要ない。理性を働かせ、嫌悪感を抑え込み、多様性を受け入れるべきではないか。

 

眠くなってぼーっとしながら読んでたので、間違ってたらすみません。

こんなことを言ってるのかな?と私は思いました。

この辺のくだりが少し残念でした。

できたら最後まで、寄生生物と人間という話が読みたかったなぁ。

最後は人間の話ばっかりなんだよなぁ。

 

でも、寄生生物部分は面白かったです。

 

 寄生生物に興味がある方

 怖い話が好きな方

 がっちりと凝り固まった枠組みの中の日常生活で疲れきってしまっている方

 常識を打ち破る感覚が好きな方

 

そんなみなさんにおすすめします

大人のステップ123

今週のお題「二十歳」

大人になったな〜と感じるとき。
それは、こんなとき。
近所の子どもたちが、小さいうちは懐っこく寄ってきて、ねぇ聞いて〜遊んで〜とうるさいほど言ってたくせに、高学年になったら急に、声をかけてもそっぽ向くようになったとき。
そうして何年かしたら、ついこの前まで道で会ってもしらっと知らんぷりしてたクセに、そんな不義理はまるで全く無かったことのような調子で、急に自分から
「おはようございます」
って挨拶してくるようになったとき。
さらに時間が立つと天気の話までするようになるんですよ!
大人のステップ123です。

そういう時々に、ああ、大人になっちゃってマア。
全く、月日が経つのは速いものネエと感じます。

大人になるって、そんな感じ。

ヒップシートキャリアというもの

こんばんは~

ネットの皆さんお元気ですか?

私は先日子供とアイススケートをしてきました。

久しぶりのスケートは、むっちゃ怖かったです。

骨折したらどうしよう とか、

骨にひびが入ったらどうやって生活したらいいの。 とか

今日、自力で家に帰れないかも とか、

若いころには感じなかったそんな恐怖感をもって、ひやひやしながらおそるおそる滑ってきました。

スリリングでしたよ~

一回転倒して腰を打ちつけ、頭の芯までずしんと衝撃がきましたが、幸い、どこも怪我はしませんでした。

贅肉が守ってくれたのかもしれません。

ありがとう。贅肉。

頭の芯まで衝撃を感じたときは、ああ、年をとるとこうなるんだ~、と、驚きました。体が硬くなるんですかねぇ。

衝撃試験を受けてるパソコンの気持ちがわかりました。

 

さて、最近よそ様のブログを見ているうちに、そういえば私も最初は夫からブログで小銭稼ぎしなさいと言われて、このブログをはじめたことを思い出しました。

実はすっかり忘れてました。

途中から、現実生活でのうっぷん晴らしに思ったことやら現実逃避やらを書き散らすブログになり、

それから100個記事を書くことが目標となり、

今はまた200記事を書くことを目標としつつ日々のうっぷん晴らしをしているのでした。

 

ということで、今回は便利そうな商品の紹介をしようと思いました。

これは、自分で使ったわけではないのですが、最近ヒップシートキャリアというものの存在を知ったのです。

 

こんな感じのやつです。

 

抱っこひもなんですが、私もこんなような感じのものを使っていました。

私のはポーチタイプで、子供を支える紐がついていました。

メーカーなど詳しい情報はわかりません。

子供が生まれてすぐ、隣の家の奥さんに顔を見せがてら挨拶にいったら、お下がりでもらった品なのです。隣のお子さんはもう大学生なので、そのくらい前の商品です。

 

上の商品の写真ではまだ乳児が抱かれています。が、このタイプの抱っこひもが威力を発揮するのは、子供が歩くようになってからだと思います。商品の写真も、こんな軽そうな赤ちゃんよりも、もっとずっしり重みのある幼児を抱っこしてる写真に変えた方がよいのではないかと思います。

子供の年頃としては、子供自身が自分でしっかり親にしがみつけるようになって、片手抱きができるくらいの年頃です。1歳から3歳くらい。

ちょっと大きくなった子を片手で抱っこして、片手で財布を開いて支払いしている写真などにした方が、この商品の便利さが伝わりやすいのではないかと思います。

そうしないのは、安全性の問題ですかねぇ。子供を落とした時に、責任を追及されないためとか。

 

おすすめポイントをあげるなら、↓だと思います。

・抱いたときに、片手をあけられる

・抱っこしたり歩いたりの繰り返しも面倒臭くない

私が持っていたおんぶひもは、子供の重みが肩にくるタイプだったので、おんぶ紐との併用もしました。おんぶするときに、シートの部分をくるっと後ろにまわし、その上に子供のお尻を乗せ、

・子供の体重を腰に分散して肩の負担を減らす

という使い方をしてました。

3歳代まで昼寝するときはおんぶされたいおんぶ大好きっ子だったので、この使い方はとてもよかったです。

まあ、おんぶに関しては今ならエルゴで解決なんじゃないかと思います。

ちなみに、リュックが重たいときにも使えました。背負子みたいな。

 

遊びに出かけるときは、子供も歩き疲れて抱っこと言いだすことも多いですから、必ずつけていきました。お下がりでちょっともらっただけのわりに、大活躍でした。

 

自分で歩けるようになった子には、なかなか便利なものだと思います

 

子供が、いいかげんyoutubeを見せろと怒ってるので今日はこれまで。