「 心を操る寄生生物:感情から文化・社会まで」 キャスリン・マコーリフ

先日、

 Jewels in the night sea 神秘のプランクトン

という本の感想を書いていたときに、「のっとり」に対する恐怖感に興味がわいたのでちょっと寄生虫についての本を読んでみました。

 

↓こういうのです。

「 心を操る寄生生物:感情から文化・社会まで」

 

 

 内容は、寄生虫研究について、どんな人がどんな研究をしているのか紹介する読み物です。研究者の容貌、雰囲気からはじまって、研究経歴、その寄生虫研究をしようとした動機や研究中に苦労した点などについて語られます。そしてそんな研究者たちが明らかにした、奇妙かつ巧妙な寄生虫の生活が紹介されていきます。

 人間に住み着いている寄生生物の数と、人間の細胞の数では桁違いで寄生生物の方が多いという話では、何が自分で、何は自分ではないのか、いったい自分というのは何なのか、不安な気持ちになりました。

 ふと、好物でもない納豆が食べたくなるとき、たぶん腸内細菌が「○○を摂取しろ」と命令してきているのです。私の無意識がそれに合致する食品として納豆を選んで、意識に納豆を登らせて、それで無性に納豆が食べたくなるのでしょう。

 そのときその納豆を食べたい気持ちは、誰の気持ちなのでしょうか。私でしょうか。腸内細菌でしょうか。私が「私」と思う私には、すでに腸内細菌が深く入り込んでいて切り離せそうにありません。感情も行動も、細菌群とは切り離せない状態のようです。

 そうだとすると、実際私として生きている私が思う「私」は、ヒトの部分と住み着いている細菌群の合わさったものだと思います。

 ヒト部分だけが「私」で、細菌群部分は別物なのだとは言えない。

 実は、若いころ、体と心があって、心だけが自分で体は自分とは違うと感じていた時期がありました。そのうち、いや、体あっての心だ。まず体がなくては心も生まれない。と気付きました。当たり前のことなのですが、そのときは驚いたものでした。今、自分というものがヒト部分だけでできているわけではないと気付いて、またとても驚いています。

 

 寄生生物そのものも面白いのですが、自分という存在の足元も不確かになってきて、考えこんでしまう本でした。

 

 面白かったんですが、私はこの本の最後の方に出てきた寄生生物の人間社会の文化に及ぼす影響と、多様性を受け入れる話についてはイマイチ何言ってんだかよくわからなかったです。

 おおざっぱに言うとこんな感じ。

 人間は寄生生物から身を守る一つの方法として、「嫌悪感」を発達させてきたのだろう。寄生生物が多い地域では、内気で、見知らぬ人間とはあまり関わろうとしない傾向が強い。それは、寄生生物のストレスに対する防衛として強化された特質なのではないか。そのため、寄生生物の少ない地域よりも、なじみのない人間に対して嫌悪感を強く感じるのではないか。寄生生物が少なくなったこの現代、なじみのない人間に対する嫌悪感や拒絶は必要ない。理性を働かせ、嫌悪感を抑え込み、多様性を受け入れるべきではないか。

 

眠くなってぼーっとしながら読んでたので、間違ってたらすみません。

こんなことを言ってるのかな?と私は思いました。

この辺のくだりが少し残念でした。

できたら最後まで、寄生生物と人間という話が読みたかったなぁ。

最後は人間の話ばっかりなんだよなぁ。

 

でも、寄生生物部分は面白かったです。

 

 寄生生物に興味がある方

 怖い話が好きな方

 がっちりと凝り固まった枠組みの中の日常生活で疲れきってしまっている方

 常識を打ち破る感覚が好きな方

 

そんなみなさんにおすすめします