変わること、変わらないこと

振り返ると、アラフィフの今に至るまで、ずっと自分の形が変化しつづけてきた実感がある。
何かしらの経験であったり、行動であったり、役割であったり、何かそういう外側から与えられたり求められたりした型に合わせよう、合わせようとしているうちに、内側から自分が変質してきたように感じる。
求めている側は、その変化を成長と呼ぶけれども、自分では変化だと思っているのは、多少反発したい気持ちもあるせいだと思う。
面倒見のいい方ではなかった自分が、困っていそうな人には自分から声をかけて助けようとするようになったのは、子供を育てたせいだと思う。
細かいことが大嫌いで、書類を見ると逃げ出しそうだった自分が、端から順に丁寧に確認したり、面倒がらずに、物事の要素を一つずつ書き出す作業が出来るようになったのは、会社で叱られながらもはたらいてきた結果だと思う。
最近、言い返さず受け流すことや、素直に人の言うとおりにすることが出来るようになってきた自分に気づいた。これは、我の強い家族の間で、揉めずに日々の生活をできるだけ滞りなく回すよう頑張ってきたせいかもしれない。とにかくみんな我が強いの。
もう、これ以上は変わらないのではないかと思っていても、変化は多分止まらない。誰かや、何かに関われば、その分、少しずつ自分はどこかがズレてきて、あれ?と驚く瞬間が来る。
思春期の子供のように、こうして今でも自分自身の内側を観察しては驚き、人として生きているとはなんて面白いんだろうと思うのは、若かった頃と全く変わらない。この部分だけは、どんなにしても決して変わることは無いのだろうと思う。
楽しく思えることが多いけれど、時々考えるのも観察するのももう止めたいのにやめることが出来ず、どうにも苦しくなる。いわゆる「業」というのはこういうことを言うのかな、と思ったりもする。
どんどん変わってゆくのなら、いつかはこんな「業」と思える部分もするっと変化する日も来るのかもしれない。
けれども、その日の自分は自分の変化を観察することもしないわけだから、観察したり考え込んだりすることをやめたと気づく事は出来ないはず。
一番大きな変質は、自分では気づくことができないのだと思うと、何だかんだとても残念な気もする。
それでも、いつかそんな日が来たらいいなと思ってる。