よだかの星のダメな感じの感想

私には歌心がないのですが、文学の素養もありません。
なくても別段生活には困っていません。
そんな私がよだかの星を読むとどんなことを思うのか試しに書いてみましょう。


物語の主人公は夜鷹でした。
夜鷹を見たことはないのですが、記述によると、味噌を塗ったような斑模様の顔をしているらしいです。茶色系の鳥かな、とイメージしました。羽は強く飛ぶのは得意なようです。足は貧弱で地上を歩くことは苦手。口は耳まで裂け、夜間、大きく口を開け、飛び回って虫を捕食するようです。夜行性です。
彼は鳥仲間からは、姿が醜いということを理由としてくっつけて、鳥社会のヒエラルキーの底辺におかれています。踏みつけにすべき相手だ、ということが鳥仲間の間の常識になっています。常識的に振る舞うのは、社会人としての嗜みですから、皆で夜鷹を酷く扱うのです。夜鷹を庇い立てでもすれば、きっと、かばった自分も夜鷹と同じ底辺に落とされてしまうという雰囲気もあるのです。空気の悪い集団です。下手なことはできません。

こういう人たちを見ると、責めたくなるのは人情です。
でも、そう責められたものでもないんじゃないかな、と私は思います。
深くはいちいち考えないのも、集団の雰囲気に従うのも、これはこれで大事な性質なんじゃないかと思うのです。多分、こういう集団だって、人類の進歩と安定にとても貢献してるはずです。それはそういうものなんだなって思っておけばいい。こういう性質を責めるのは、責めるほうがワガママ言ってることになると思う。朝顔に、冬咲かないなんてひどいと文句を言うようなものかと。
ただ、私個人としてはあまり付き合いたくはないです。ついうっかりこういう集団と関わってしまったら、目立たないようにジワジワと距離をおき、あれ、そういえばあの人どうしたっけ。いつの間にかいなくなってたね。え?誰の話?そんな人いたっけ?覚えてナーイ。そんなことよりさあ。。。という感じで離れておきたい集団です。こういう集団の一員になるのであれば、いっそ一人ぼっちのほうがよほど心愉しく暮らして行けます。
ところが、鳥たちも夜鷹もこの集団からは離れられないようなのです。ここに所属するか死ぬかの二択しかないらしいのです。この話はそこが不思議で納得もいかないところですが、そうだと言うならしかたありません。そういうことにしましょう。
さて、そんな集団の中でも、鷹のよだかの嫌いようは一番強いようです。他の鳥は、所属集団で夜鷹を嫌うことになってるから、という理由だけで夜鷹に辛くあたっていました。嫌う理由が自分発の感情ではないのです。それなのにこんなにひどいことを出来るのかと思うと、非常に恐ろしい。多分こういう人たちが最も恐ろしい。本当に、あまりつきあいたくない人たちです。鳥だけど。それはさておき、鷹です。鷹には夜鷹を嫌う理由が他にもあった。名前に自分と同じ、鷹が入っていたから。これは彼にはどうしても許せないことだったようです。名前を変えるか、死ぬかのどちらかだと迫りました。なんとも身勝手です。でも鷹は、自分の主張にこそ正当性があると信じています。物語世界の鳥社会の常識的に考えて、そうだからです。夜鷹は蔑むべき存在なのです。常識であり正義でもある。だから、鷹は一つも間違っていない。自分は正しいと信じています。
こういうのも、珍しいことではありませんね。世の中こんなこといっぱいある。
夜鷹サイドからしたらオカシイよ!と思うことなのですが、わがまま言うなと、かえって夜鷹側が身勝手なことを言っているかのようにそしられます。
そこから夜鷹は、どうしたことだか変な方向に行きます。

皆が自分をいじめ、鷹は自分を殺そうとしている。名前を変えることを拒否したので、明日はきっと殺される。でも、自分だって虫たちを食べて命を奪ってる。こんな世の中は嫌だ。

解脱だ。
そうだ、星になろう。

もう、どうしちゃったのかと思いました。確かに奪い奪われするのは嫌な話ですが、星の世界に逃げるしかないのでしょうか。星の世界は美しいけれど、そこは冷たく暗く、悲しみと苦しみが凍りついたような世界です。美しく輝く悲しみが永遠に凍りついて残ります。
美しいけど役には立たない。
腹の足しにもならなければ、ケツも拭けない。
本当にそれでいいのか。もうチョット頑張れないものか。
命というものは自分の物ではありません。自分自身も自分のものではありません。それは何かのうちの何かであり、ここに現れた何かであり、ちっぽけな気持ちのようなものでどうこうできるものではない。なにを言ってるかわかりませんね。この辺はあまり気にしないでください。ともかくも、生まれてきて生き始めたのなら、生き終わるまでは生きるより他にありません。
名前を代えろと言うなら変えたって良かった。なんと呼ばれようと気にしなければいい。鳥社会からは抜けられないようですが、所詮多くの鳥は昼間しか起きていません。会わないようにしようと思えば会わずに済ませることも出来る。辛い日もあるでしょうが、誰も、心の中までは立入ることは出来ません。広大な自由の土地を、そこにつくればいい。どんな名前で人が呼ぼうと、自分が自分として生きていくことはできます。何も、他人が他人の都合で下した評価を、自分までが信じる必要はありません。
それに、物事はずっと同じ状態で続くとは限りません。分かってくれる人が、いつかは現れるかもしれない。
そういう可能性というものは、いつでもゼロではありません。人は変わる。変わると、今度は、まるで自分は最初からそうだったみたいなでかい顔をするのもまた一興です。鳥だけど。この場合だったら、夜鷹は何も悪くないのにいじめるなんて皆オカシイよ!と言い出す。自分だっていじめていた癖に、まるで自分はいじめたことなんて一度も無いという顔をします。そういう自分についてどういう認識でいるのだろうかと不思議に思いますが、まあいいでしょう。変わったのなら。過去は問わず、結果を大事にした方がいい。
そもそも、他人は責めてもしょうがない。どうにもならない。つまり、全く役に立たない。
他人というのは何をどう考えどうするのか計り知れないものですが、今現在の行動がコチラにとって都合がよく変わってくれたのなら、もうそれでいいでしょう。
責めても何も変わりません。
人は信じるものです。
信じることを選ばなければならない。
恨んだり責めたりしたくはなりますが、それは建設的じゃない。
憎んだり恨んだり悲しんだりして非建設的に生きるのと、建設的な気持ちで信じて生きていくのと、どちらが気分がいいのかという選択の問題です。
自分が生きているうちには望みはかなわないかもしれません。でも、変わる可能性がゼロではないなら、信じなければならない。
それは、多分一番幸福感のある生き方です。
その可能性を信じていようとしなかったことが、よだかの失敗だったのかな、と思いました。
でも、一番おかしいのはその集団から離れられないという前提だったことだと思います。

以上、よだかの星感想でした。