子育ての「待つ」の待ち時間のいろいろ

今日は自転車をこぎながらふと思いました。

子育てでは「待つ」ことがだいじとよく言うわけですが、この待ち時間は結構長さがいろいろあるなぁと。

 

数分単位の「待つ」もあります。

子供が自分なりに納得して、するべきことをしたり、我慢したり、気分を変えたりするまで、親は黙って待つのです。

じいっと黙って、なかなか行動に移さない子供を見ていると、気になって声をかけたくなるのですが、ここは親の方の我慢のしどころだと思います。

途中で声をかけると、子供は気持ちが乱れてしまいます。

言えたかもしれない、「ごめんね」が言えなくなるし、自分だけで出来たかもしれない宿題にとりかかれなくなってしまうわけです。

このときの待ち時間は、たいがい数分です。数分待って子供が自分で動かないなら、まあ、動かないんでしょう。やらなきゃって思っているけど動けないわけです。大人でもよくあるやつです。お風呂に入らなきゃ~、とか、歯をみがかなきゃ~、とか、晩御飯作らなきゃ~、とか思いながらだらだらしてしまうわけです。

ここで声をかけると、十中八九子供ともめます。例えもめたとしても今声をかけるべきなのか、それとも黙っていることにするのか、そこでいつも悩みます。

 

少し大きくなると、数時間単位で「待つ」こともでてきました。

厳しく叱りつけた後などの待ち時間です。数時間、一人で放っておいてやると、やがて何かしら反省してきます。

これもやはり、途中で親からは声をかけない方がいいようです。

 

数年単位の「待つ」もあります。

結局のところ、周りで大人がガミガミ言ったって子供が成長して自然とできるようになるときがこなければ出来るようにならないことというのもあるのです。育ててみて、強く実感したことです。育ててみるまでは、こういう気の長い「待つ」があることは知りませんでした。

これは本人の成長を、じ~っと待ってるほかない。叱ったからと言ってすぐに子供の姿は変わりませんよね。よくない行動をつどつど叱りつつ、どこかあきらめながら待つのです。

たとえば、授業中についつい騒いじゃう、とか、字が乱雑、とか忘れ物が多い、とか、宿題をやらない、とか。

叱られると、もうしません、これからちゃんとしますと言うけれど、今日叱ったことを、明日もまたきっとこの子はやる。子供はすぐには変化しないんだとちょっとあきらめながら、その都度きちんと正してやりつつ、数年後に出来てる姿を期待して待つのです。

 

これがシツケというものかな、とも思います。

子供自身の中身が出来上がってくるまでの間、肝心の中身が委縮してしまわない程度に周りからガミガミ言って、行いを正してきちんとさせてやるという。

 

まあ、大人になるまでにだいたいつじつまがあってればいいんじゃないですかねぇ。