骨なし人類の被差別感情について1(ただの愚痴)

人間には2種類あると思う。
こうでなければダメだ。こうでなければ許せない。という気持ちで生きてる人たちと、いいじゃあないの。なんだって。という気持ちでふわふわっと生きてる人たちだ。
たいてい、人間社会の屋台骨は前者が支えている。大変立派な人たちである。当然、尊敬され、讃えられるべきである。そして後者は、その周辺でなんとなく漂っているのである。今仮に、前者のしっかりものを屋台骨人類と名付けてみる。そして後者は、漂ってるイメージから、クラゲ→骨なし→骨なし人類と呼んでみることにする。
さて、こうして分けてみたとき、あなたははどちらの人類に属するのか。
私の場合は、骨なし人類なのである。世間を漂いながら、学習によって、必要にせまられれば屋台骨的振る舞いもどうにか多少できるようになった骨なし人類。でもそんなの後付だから、屋台骨は長くも多くも支えられない。そういう骨なし人類の私が、屋台骨人類についてグチグチ語る。これはそういう記事である。妬みと偏見と恨みつらみに満ちた、それは見るもおぞましい日記になる予定である。
そんなものを何故書くのかと言えば、感情というもののそれが性質だからと答えようと思う。人間の感情は、どんな内容であれ、表現され、人前に広げられることを求めるものなのである。私が書くのではない。感情が書かせるのである。そして感情はこの世に生まれでてゆくことを目指すのである。今、ネットの海にこの感情を解き放そうと思う。

でも今日はもう疲れちゃったのである。