腐女子道 腐女子について思う4
さて、またしても腐女子の世界をもっと考える。
だあれも読んでないのでノビノビ行ってみよう。
腐女子作品世界には、特徴的な性質がある。
先日はうっかりしてたけど、今日気がついた。
腐女子的な世界は、
作法に煩い
のだ。
攻と受が決まっていること
それが固定的であること
女性は登場してはならないこと
型が決まり作法が決まり、まるで茶道や、和装の世界のようである。
うるさ型が、ああではダメ、こうではダメ、こうでなくてはならない、と事細かに煩いことをとやかく言ってくるあの世界である。
それと同じ空気感が漂うのである。こうなるともう、これは腐女子道とか呼んだほうがいいのかもしれない。
というわけで、私は、
「腐女子道」
と呼ぶことにする。
こうして考えると、腐女子道をたしなむのはどのような人かその人物像が感じられてくる。
形を決め、作法を好む人である。
「ねばならない」を好む人である。「ねばならない」で縛ることを好む人である。
だから腐女子道にはたくさんの「ねばならない」がある。「ねばならない」は正しく守られる必要がある。守られなくては不満がたまる。
癒やしと傷の凸凹関係が見えてきた気がしないだろうか。
腐女子たちは現実生活で不満をためている。それは、彼女たちの思う「ねばならない」が守られないせいだ。では、誰が守らないのか。自分ではない。他者である。他者に「ねばならない」を守らせたい。自分の支配を行き渡らせたい。腐女子にはそんな衝動と満たされなさがあるのではないか。
その不満が向かわせるのが、ただしく「ねばならない」が行き渡る、美しい新世界なのではないか。
その世界に腐女子自身は登場しない。何故ならば、腐女子は腐女子の新世界の神だからだ。登場人物とは、神に支配される者たちだ。登場した者は、つま先から頭の天辺まで、腐女子という神によって支配される。神は隅々までを支配し、「ねばならない」を行き渡らせその運行を見守るのである。
腐女子世界に接していると何となく感じる窮屈さは、こういう「ねばならない」の圧迫感だったのかもしれない。
何故男同士か
最大の疑問。
でもこれは、腐女子道における腐女子の新世界が、腐女子たちの満たされない願望、欲求を充足させるためのものなのだ、ということから説明がつく気がする。そのまんまそれが願望だということ。
大抵の少女マンガは、男性に「攻」を受け持たせて女性に「受」を受け持たせる。女性側はその気がないけど男性側がやる気まんまんでもう我慢できなくて無理矢理奪われちゃうというヤツだ。壁ドン、床ドンだ。
男性漫画だと逆に、恋愛感情に鈍感な主人公が、積極的な女の子たちに囲まれていつの間にかハーレムが出来てる話ばかりである。
承認欲求という事もあるのだろうけれど、性に対して積極的であることは格好悪いという「ねばならない」が漫画の世界にはある。
男も女もそんなもの読んでるから、少子化が進んじゃったんじゃないのかという話はおいておく。
女性誌には「抱かれたい男」という言い回しもある。「抱いて欲しい男」という言い方ではだめなのである。自分から「抱いて」と強請りにいくようなニュアンスは許されない。あくまでも、自分はその気はサラサラないんだけどあっちがやる気まんまんでもう我慢できなくて無理矢理抱かれちゃう、というのがお望みなのである。
何しろ積極的なのはだめ。
こういう「ねばならない」を真面目に守ろうとしたとき、自分の性衝動の積極性は行き場が無くなる。つまり、マウントポジションを取りたい欲求。あけすけに言えば、イケメンを押し倒してあれやこれや虐めたいという欲求。
新世界の神となった腐女子たちは、「受」を男性にして痴態を描くことで自分のマウント欲求を満たし、同時に、「攻」も男性にすることで女性は性に消極的ですねあら「ねばならない」という決まりもしっかりと守っているのではないか。
こうして、「攻」「受」両方をやりたいという自分の願望をいっぺんに充足させている。
そういう、性のドリームランドなのかもしれない。
つまり
よくばりセット
そういう風に私は思った。