アサーションのお手本のむずがゆい会話

先日も紹介したアサーションの本

 

 

アサーティブな人のする会話がむずがゆいです。

 

たとえば、友達に、一週間という約束で本を貸した。2週間後になってやっと返してきた。友達からは、ごめんね、の一言もない。

 

このときの会話が、うろ覚えだけど、こんな感じ。

「この本、かえすよ」

「ありがとう。それにしても、遅かったね。どうして遅くなったの?心配になったよ」

「この本の事、兄さんに話したら、面白そうだねって読みたがったんだよ。だから兄さんに貸したんだ。それで1週間遅れたんだよ」

「そうだったんだ。今度からは、兄さんにも貸すって早めに話してほしいな。どうしたのか心配だったんだ。お兄さんもこの本を気にいってくれてうれしいよ」

「ごめんね。今度からそうするよ」

 

うろ覚えだけど、こんな感じで会話します。本を貸した人がアサーティブな人です。

こういう会話がむずがゆいのは、私だけでしょうか?「お兄さんもこの本を気にいってくれてうれしいよ」の部分が、ムズムズします。実際言われたら多分、イラっとすることでしょう。

アサーションの話に出てくるお手本のような会話は、こういうむずがゆくなるようなセリフがよく出てきて、苦手です。

この部分、必要なんでしょうか。

 

それは置いておいて、アサーションそのものについては、そういう言い方ができたら生活が便利だろうなと思います。

アサーションというのは、言い回しとかの表面的なことではなく、相手の善意を信用するということなのかな、と思っています。そして、自分自身も、信頼に足る態度で接する。かつ、自分と人との領域を意識する、ということかと。

その上で、さらっと笑顔でさわやかに、感じたことを言ってみる。言葉足らずにならないように、きちんと説明する。ということだと理解してます。

実践はうまくいかなかったり、出来なかったりすることもありますけどね~。

 

困るのは、相手の人が自分の思い込みの殻の中から出てこようとしないときですよね。

まあ、私の場合は姑とか、子供の友達のお母さんとか、先生とか。つきあいが今後も長い分、姑と話が通じにくいのには困っています。

何をどう言っても、言わなくても、

「嫁をいじめる悪い姑。と、嫁に言われるから、あんなこともこんなことも我慢せざるを得ないの」

という、「卑屈の間」から出てきてくれません。それを嫁である私にちらつかせることで、どんな効果が生まれることを狙っているのかも、謎なのです。姑の態度から、私は、姑が「卑屈の間」に閉じこもっていることを感じますが、多分そんなことを分かってほしいわけじゃない気がするのです。姑が私に求めている反応はきっとコレじゃない。ってところまでは感じますが、それ以上はどうもわからない。

かといって、姑に「卑屈の間」から出てこい、というのも違うのかな、とも思うのです。それは姑の流儀ではない。まあ、居心地悪そうな部屋だと思いますが。長年ずっと「卑屈の間」で暮らしてきたから、そこから出る方が、今の姑にとっては居心地悪いのではないかな。と。

 

アサーションで紹介されるのは、アサーティブな人同士のやりとりだし、アサーティブであることが素晴らしいような話ばかりです。むずがゆいんです。

でも、実際は、アサーティブとは流儀の違う人がたくさんいて、そんな人ともほどほどにやっていかなくてはなりません。

 

どんな他流試合でも、ほどほどに、楽しくやれる仕方があれば、そちらの方がより実践的なのかもしれないと思いました。